few matters

些細なる半分

普通じゃない!

休日という自分のために使える時間を無為にしてしまうことが多い。最終到達点のイメージを掴んで、やることの順番を整えて、後はもうやるだけ、というお膳立てされた状態になった所で気が進まなくなってしまう。「思った通りにいかずに期待が裏切られていく現実を避け、夢を見ている方が幸せ」なのではと自分に問うても、それは事実かもしれない、などと弱い反応をしていた。

こんなことを考えていて、ふと、「意味がなくないか?」という眼差しが動機のもっと根本的な部分で力を発揮していることを認識した。周りの人がどうであろうと、自分の人生が終わる時に後悔なきようやりたいことをやっていこう、という意識を深い所で持っていたつもりなのだが、「周りの人が」「普通は」というバランス感覚を積極的に排除しにかかるような意識は持っていなかったように思う。

「普通」の冷たい眼差し。自分の中に起こる感情の中でこれほど怖いものは無いかもしれない。ある時期から、この天使か悪魔か知れない存在が心に住むようになり、随分と助けられている。主に人間関係ではこの回路に頼っていれば外れはないので、むしろポジティブに迎え入れていた。一方、融通という言葉を知らない病的に頑なな回路に痛い目を見させられていた身として、「思い込み」が軽蔑の対象になっていた所もある。

鑑みるに、「普通」に染まりきることもなく、「思い込み」が勝っている場面も多々ある。ブログを書いている時、作詞をしている時など、書き言葉で思考をしている時はその向きがある。力が拮抗した綱引き状態というよりは、場所によって勢力が分布したモザイク状態という形容が適切かもしれない。そして、この争いに自覚的でなかったため、コントロールしてやろうという発想にも到底至らなかった。

そこで、私の世界における安定した「普通」は「思い込み」なんですよ、という「普通」の眼差しの返す刀で「普通」自身を刺すということ、それでも出しゃばりすぎるようだったら軽蔑の対象にすること、が果たして可能かどうかを試している。うまくいくといいな。