形から入る男
ブログってどういう風に書くものなんだっけ?
数年前は浮かんでは消える思考の流れのあるがままを言葉にしていた。今はブログに意味や価値をもたらす形式や内容に対する考え方が変わったように思える。特に、「自分だけのための手記」と「自分の中にある何かを言葉を通してWebの海に解き放つ作業」の間に違いを感じる。後者はどこまで内省的になったとしても、他人の存在の影響があることを心が理解したのだろう。すると、自分の中には無数の何かがある中で、あえて何を取り上げて解き放つか、という観点で自分自身を問う視線も厳しくなってくる。だから、しばらくブログを書くということをしなくなったのだと思う。
私は形式を重んじる傾向がある。「形から入る」という言葉は「本質を蔑ろにして体裁を繕う」というニュアンスが滲むので抵抗感があるが、字面的な意味において、私は形から入ることが好きだ。現在から未来への発展のイメージがしっかりと描けていない状況下で、詳細に入り込んでいくことを極力したくないような所がある。このブログ記事ひとつ書くことですらも、この面倒な慣性に後ろ髪を引かれる。
大抵の場合、形式のあるべき姿は頭の中では思い浮かんではいるのだが、それを具体化していく過程が億劫になってしまう。その状態を指して自己完結や自己満足などと言うのかもしれない。そして、いつまで経っても何か物足りない感じのまま、時間がダラダラと過ぎていってしまうことも分かっている。
冒頭の問いもそう。形式は見えている。まず、自分にとって自然で馴染みのある回路、すなわち、パッと浮かんだあるがままを垂れ流す。これは「自分だけのための手記」。次に、具体化された何かを眺め、この状況を損失なく万人に伝えることを意識しながら整理していく。これは「外界に宛てる手紙」。このふたつの作業を反復しながら同時に進めていくのが新しい。仕上げに、少し時間をおいて熱とノイズを取り去った頭で眺めて全体を調和させる。今はこのような形式が良いと見ている。
自分だけのための手記は刹那的なもので、半年前に自分が書いたソースコードが何を表現しているのかが皆目見当つかなくなるように、自分でも何を表現したいのかが分からなくなってしまうものだ。それはとても悲しい。そんな経験から、外界への手紙の宛先には未来の自分も含まれる、と考えるようになった。